(Ⅱ 絆の糸 からの引用)
「魔女」だと、悪意ある者はルフレをそう呼ぶ。
長年の敵国であるペレジア出身、信頼も地位もなく戦術のみでかつて王弟であったクロムに取り入り結ばれる。魔女に魅入られてしまったのだ、と陰で囁く貴族をクロム自身もみたことがある。長子ルキナが産まれてからはその噂もあまり聞かなくなったが、未だにイーリス史にも例がない王妃を疑惑の目で見る者は多かった。
とても愚かしいことだとクロムは思う。
ルフレは命を賭して皆を守ってくれた。姉を失い折れそうな心を繋ぎ止めてくれた。自らもいつ死ぬかわからない最前線で、彼女はいつも側にいてくれた。
生まれなど関係ないことは、共に戦ってきた自警団の仲間達も証明してくれている。安全な場所にいるもの達には永遠にわからないだろう、この運命よりも尊い絆なんて。
傍らに座るルフレを抱き寄せる。肌が透けるほどの薄い夜着を身に纏っている彼女は香油でも塗ったのか、吸いつくようにしっとりとして良い香りがした。しかし妻の横顔は陰りを帯びているように見える。
「何を考えているんだ」
頬を撫でると、ルフレは視線を少しだけ上げた。
だがすぐに睫毛によって琥珀色の瞳が伏せられる。
「クロムさんに言うと怒るから、言いません」
「俺が怒るようなことを考えているのかよ」
ならば実力行使だと、クロムは彼女を寝台へと優しく押し倒す。整えられたシーツはあっと言う間にぐしゃぐしゃに乱れ、めくれあがった夜着からは白い足が覗いた。
「はひゃっ、くすぐったいですってば!」
「白状するまで止めないからな」
全身を擽ると、ルフレは足をばたつかせ笑いながら身をよじらせた。時折胸の尖りを掠め、内股を撫で上げるように擽ると、背筋を跳ねさせ顔を赤くする。
「い、言います、言いますからっ」
眦に涙を浮かべ、息を荒げているルフレの体から手を離す。代わりに寝台へ縫い止めるように両手首を掴み、逃げられないようにすれば「もう、ちゃんと言いますって」と息を整えたルフレが拗ねたような目を向けてきた。
「ファウダーのこと、……妹のマークのことを考えていたんです」
「……本当の家族のことか」
城に連れ帰られた生き残りの赤子、マークを思い描く。髪色と性別以外はクロム達の第二子マークとそっくりな彼女はルフレの恐らく姪であり、腹違いの妹だと言われた。
父親は邪教の祭主であり宿敵、ルフレの母は既に亡くなっていると聞いている。天涯孤独だと思っていただろうから、妹であるマークの存在はルフレによって喜ばしいことなのだろう。しかしルフレは、憂いを帯びた瞳を伏せて複雑な胸中を言葉に続ける。
「どうなのでしょうね?家族とはいっても私はファウダーに育てられていないですから、情の抱きようもありませんもの。血の繋がりがあるとすら、考えたくありません」
嫌悪感を隠しきれず吐き出すようにそう言った後、「でもあの子……マークは違います」と言葉を続けた。
「あの子には何の罪はありません。私達親子が逃げたからあの男は代わりの器を作ろうとしたのでしょう。幸いあの子に邪痕は出ていませんでしたが。私を未だ教団が追っているということは、まだ私以外の器は出来ていないということなのでしょうね。きっとマーク以外にも、そんな子供達がいるでしょう……こんなもののせいで」
掌に刻まれた邪痕を睨みつけルフレは呟く。しかしその眼差しには哀惜が含まれていることはクロムにもわかった。
「私はあの男に復讐したかった。母さんを教団に殺されたから。ふふ、最初はそれが目的でクロムさん達に近づいたんです。実際は追われている私を助けてくれたんですけどね」
「……ああ、そうだったな」
「でも今は、あの男を憎むというよりも……この血が嫌で仕方がないんです。ファウダーを倒しても、器になれなかった者がギムレーを求めるかもしれない。そうすればまた争いが起こります。マークみたいな子供達も、きっと増え続けます」
ルフレは一度言葉を区切ると、躊躇うように目を伏せる。しかしクロムが言葉を促すよう強く手首を握れば、彼女は唇を震わせる。そして縋るように濡れた瞳を向けてきた。
「ギムレーの血はルキナ、マーク達にも流れている。幸いあの子達には印が出ていないけど、世代を隔てれば分からない。私達がファウダーを倒しても、平和になったらきっと人々はギムレー教団なんて忘れていくでしょう……そしてまたいつか、邪悪な力を求めた者がギムレーを求める。繰り返されるんです」
「……ルフレ」
「本当は私一人で抱えるべきだった。でも、貴方や子供達を巻き込んでしまった。この血の呪いを、被せてしまった!私、クロムさんと結ばれて幸せです、この気持ちに嘘偽りはありません。でも、私が幸せな裏でマークみたいな子が器作りの為にと産み出されていた……私、私は、本当は……」
「ルフレ!」
その震える声の続きを聞きたくなかった。
怒気を込めてクロムは叫ぶ。ルフレの肩が震え、眦から一粒涙が流れ落ちた。
「今更、俺と結ばれてはいけなかったとでも言うんじゃないんだろうな?」
「……」
「バカなことをいうな!」
彼女の右手の甲を掴む。月明かりの下でもわかる黒々と染まる痣。自らの聖痕と対をなすそれは確かにルフレの人生を狂わせ、クロムもまたそれにまつわるペレジアとの争いで大切な姉を失った。
「俺はお前と戦うと決めた。こんな馬鹿げた戦争を終わらせるために、姉さんが築きたかった世界を成し遂げる為に!その気持ちは違わない、そうだろう?……それに、逃げようたってもう遅いんだ。俺は逃げない、絶対に」
唸るようにそう言って彼女の掌を覆い隠す。
――彼女と共に生きることを決めたのだ。
血よりも濃く深い絆で結ばれているのだから、なにも恐れることはない。
「お前は今更逃げるというのか?世界から、そして家族……俺やルキナ、マークを達を置いて!」
ルフレは目を瞠り、即座に首を振る。泣き出しそうな声を上げて、クロムを潤んだ瞳で見上げた。
「そんなこと、できるわけがありません!」
「なら、もうこんな馬鹿なこと二度と言うな。教団と戦うことを決めたのは俺だ、お前はそんなこと気に病まなくていい。ルフレ、お前がその血に縛られるというのならば俺も背負おう。それぐらいの覚悟、とっくの昔に出来て居るさ。もう子供も二人出来たというのに、お前は今更何言ってるんだ」
そう笑って彼女の涙を掬い、頬に手を当てる。ルフレは顔をくしゃりと歪ませ、泣き笑いを浮かべた。
「クロムさんたら、怒らないって言ったのに」
「わ、悪い、つい俺はお前を妻にして後悔したことがない、それを言いたかったんだ」
「いいえ、有り難うございます。弱気になっていた私が悪いんです。子供達やみんな、クロムさんがいるというのに。私はもう一人じゃない。だから、大丈夫……」
掌に頬を擦り寄せてくるルフレに愛しさを覚え、未だ眦に溜まっている涙に口づけて吸い取る。当たり前のように塩辛くて、彼女が抱える苦しみを少しでも分かちあえた気がした。額に額を寄せると、ルフレがじっと見つめてくる。
「ね。クロムさん」
「なんだ?」
至近距離で彼女が穏やかに笑う。そしてそのまま唇が近づき、深い口付けをされた。
*
陽光が差し込む部屋で、揺り籠を時折揺らしながらルフレは手元に集中する。黒い生地に黒い糸を使っているせいで非常に見えにくく、もとより裁縫が得意な方ではないルフレは糸が絡まらないないようにするだけでも必死であった。
「いたっ」
だがついに銀の針を指に突き刺してしまい、血の玉がぷっくりと浮かび上がる。思わず大きな声をあげてしまったが子供達は安らかに眠っていて、安堵していると「どうかしたか」と背後から眠そうな声が聞こえた。
「あら、クロムさんが起きちゃいましたか」
「結構前から起きてた。お前が四苦八苦しているのが面白かったからな」
「趣味悪いですよ、もう」
彼の傍らで健やかに昼寝しているルキナを起こさぬよう声を潜めて話した。寝ぼけ眼なのに何処か意地悪そうに笑う彼は普段の毅然とした王の姿とはかけ離れていて、近くでそんな顔を見れるのも妻の特権だとこっそりのろけている。
遠征も公務もない休日は貴重だ。緩やかに過ぎていく時間を家族で過ごすのは、聖王夫妻の密かな楽しみとなっている。
「ん、血が出てる」
「さっきうっかり刺しちゃって。やっぱり裁縫は慣れないです、セルジュさんにちゃんと教わったのですけどねー」
戦術と戦いに関することばかり学んできたものだから、こういう女性らしいことは苦手だ。見事に蛇行している縫い目にため息をつき、血を拭おうとする。その指をクロムにぐいっと掴まれた。
「ちょ、ちょっと。クロムさん?」
瞬間ぬるりとした感覚が指先に走り、ビクリと肩が跳ねる。血と傷口をざらついた舌が撫でるよう触れ、舐めとられていった。急な夫の行動に抗議しようとしたが、子供達が寝ていることを思い出し慌てて口を閉じた。
熱い粘膜の感触に否応がなく昨夜の行為を思い出してしまい、体が熱くなる。しかし子供達の手前発情するわけにもいかない。ぽかりと彼の頭を叩くと、ようやく彼は指から口を離した。
「もう、こんなのダメですってば!」
「俺は消毒してただけなんだが」
なにがダメなんだ?と夫は不思議そうな顔で首を傾げてくる。彼は時々天然だ、とルフレは肩を落とした。それとも自分が淫らなだけなのだろうか……それはそれであさましい己に落ち込み、体の奥で燻っていた熱もすうっと引いた。
「なんでもないでーす……」
「そうか?手元には気をつけろよ。それにしても、お前が裁縫なんて珍しいな」
「ええ、時間がある時に少しずつやろうと。これ、あの子のお母さんが持っていた外套なんですよ。マークをくるんでいた……」
縫いかけの外套を広げると、クロムは「ああ」と思い出したように声を上げた。ルフレのトレードマークである外套によく似たものだが、生々しい焦げ目や切り裂かれた後がある。
「大分穴が大きいですが、当て布をして繕えば十分着られるでしょう。あの子にとってのこれと名前が唯一の形見になりますから、しっかり直さないと」
名前すら聞けなかった叔母が惨劇から身を挺して守った赤子は、揺り籠の中で安らかに眠っている。家族がいなかったはずの自分にいた腹違いの妹で姪。ファウダーとの血の繋がりが嫌で仕方なかったのだが、彼女という思いがけない血縁には不思議と親近感を覚え、愛しく思えるのだ。
「でも本当に良いのですか?この子もルキナ達と一緒に育てるって。勿論私もそうしたいとは思うのですが、この子にイーリス王家の血は……」
「下らないことを気にするな、ルフレの家族なら俺の家族だよ。それに俺には姉さんとリズがいた、もう一人女の子が欲しいとは前々から思っていたんだ」
ルキナも妹が出来たと喜んでいただろ?そう言って傍らで眠っている娘をクロムは撫でた。初めこそ母の妹だと説明されて不思議そうな顔でもう一人のマークを見ていた彼女だったが、これから一緒に暮らすことを告げれば「いもーと!」と嬉しそうにはしゃいでいた。従兄弟も産まれたばかりの弟も男の子だったから余計に喜んでいたのかもしれない。いつか可愛いドレスを着せるんだ!とお気に入りの珍妙な柄をした人形の服を見せてきたことを思い出してクスリ、と笑う。
「しかし、同じ名前で同じ顔って不思議な話だ。こうして改めてみると双子みたいだな」
「本当に……マークという名は伝承に伝わる軍師から取ったのですが、この子もそうなのかもしれない」
「俺たちの元にきたのも、絆の巡りあわせなのかもしれない」
「クロムさんったらなんでも絆にして。……でもそうですね。きっと私達、見えない何かで繋がっている」
いつのまにか指を握りあって眠っているマーク達を見つめながら、不思議な巡り合わせに笑みを浮かべる。
「どんな子になるのかな。この子達が健やかに育ち、平和な世界で暮らせるよう私達が頑張らないと」
「そうだな。必ずそういう世界にしてみせる」
気づけばルフレは裁縫の手を止め、、クロムの手に自らの掌を重ねていた。自分よりも大きくて、ごつごつとした手。その温もりを確かめ、彼の肩に寄りかかる。
「どうした?」
「……甘えたいなって」
「そうか」
クロムは微笑み、ルフレをさらに抱き寄せてくれる。
子供達の規則正しい寝息だけが聞こえる空間で、静かに寄り添いあった。エメリナの遺志と、クロムの理想を追う戦いの日々はこれからも続く。けれども、今だけは。
しっかりと繋がれたこの手を、絆を。確かめていたかった。
(Ⅲ章 忌み血の少女 からの引用)
あれから世界は一転した。マークは瞼を閉じ、ぼんやりと亡くなった姉の言葉と姿を思い返しながら物思いにふける。
聖王夫妻の喪が明けてから三年が経った。
たった三年だというのに世界は激変した。まず日差しが差し込まなくなり、季節を失った世界は常にどんよりとした厚い雲に覆われている。深刻な食糧不足、そして何処からか現れた不気味な兵士達、屍兵。大義なく地上を徘徊し、ただ生者を殺し蹂躙することを目的とした化け物達によって、町や村は襲われているのだ。国や街がまた滅びたと毎日のように耳にして、次は自分達だと民は震え上がっている。普段はそれぞれの故郷で暮らしていた幼馴染達も、侵略によって住処を追われてしまった。今は聖王代理であるリズの庇護の元比較的襲撃を免れているイーリス王都で暮らしている。幼馴染達の中には、両親を喪った者達も多い。
今目の前にいるノワールもそんな一人だ。彼女は瞼を閉じて、ベッドに腰掛けているマークの額に触れてくる。ただ手を当てているだけなのに、何か膜のようなものが這うような探ってくるような感覚がしてこそばゆい。これがノワールの魔力なのだろうか。
「どうですか?」
「……ううん、呪術的な魔力の気配は感じないわ。母さんほど詳しくはないけど多分、これは呪いじゃない」
「よかったなーマーク、呪いじゃないってよ!マークが絶滅しなくてすむー!」
「シャンブレー、喜ぶには早すぎるのです。結局マークの頭痛の原因がわかってないんですよ」
ンンのため息混じりの指摘にシャンブレーは兎耳をしょんぼりとさせる。ノワールも「力になれなくてごめんなさい」と眉を八の字に寄せてマークの額から手を離した。
変わったのは世界だけではない。マークの身にも変調が起きていた。聖王夫妻が亡くなって以降、原因不明の頭痛に苛まれているのだ。
当初は気のせいだと思えるくらいの軽い頭痛だった。だが日を追うごとに痛みは増して、酷い時には頭の中で大きな鐘を鳴らされているかのように痛む。そんな頭痛が今は慢性化しており、マークは訓練を休み、床に臥すことが多くなった。皆そんなマークを心配してくれている。食料が少なくなっている中、なるべく栄養が多いものを自分に回してくれていることも知っていた。だからなんとかしたいと原因を探っているのだが、呪いでもないと知った以上有効な対策が浮かばずどうにも出来ないのかと内心落胆していた。それでも自分自身が諦めてはいけない。
マークは表情筋を無理矢理動かし、同じように落ち込む三人へ笑いかけた。
「もう、みなさんったらそんな顔しないでくださいよ。ちょーっと痛いだけですし、呪いじゃないだけまし……っ」
「マーク?」
「おい、大丈夫か?」
瞬間稲妻のような痛みが頭に差し込み、思わず呻いてしまう。とっさにシャンブレーに支えられ、皆に心配そうな瞳で覗き込まれた。
「だいじょぶ、です。……おかしいですよね、急に痛くなったりするんです」
「全然大丈夫じゃないだろ?顔真っ青だぞ!すぐにいい薬出すから寝てろって」
「横になった方がいいですよ、マーク。隈が酷いのです」
ノワールのハンカチで脂汗を拭われ、「ごめんなさい」と呟けば彼女は優しく首を振る。
「仲間じゃない。私も病弱だし弱気だったから昔から迷惑かけていたけど、皆は、マークは助けてくれた……だから今度は、私の番よ」
「マークらしくないです、謝るなんて」
「そうだよ、早く元気出せよな!あったあった、タグエル直伝の頭痛薬!苦いけどきっと効くぜ!」
「うー、みなさんたら私のことなんだと……でも有り難うございます、これ飲んで寝たらきっと元気になりますよね!もし効かなかったら……ねえノワールさん、兎の肝とかって頭痛に効きませんかね?」
「ひ、ひいいい!絶滅する!」
差し出された薬袋を受け取り微笑んでみせるとンンは安堵した顔を見せ、シャンブレーは仰け反って震え出す。しかしノワールは気遣わしげな顔でこちらをじっと覗き込んできた。
「ねえマーク、無理しないでね?」
「ノワールさんったら。私、無理してなんかいないですよ?今もこうして訓練さぼってのんびりとしていますし」
「そう、ならいいんだけど……」
彼女はいつも困ったような顔をしているのだが、今日は特にそうだ。何か言おうとして、しかし言葉が思い浮かばないのか、それとも言いにくいのか。長い睫を瞬かせ黙ってこちらを見つめてくる。ンンはそんなノワールの様子に気づき、シャンブレーの腕を引っ張った。
「さて、そろそろ訓練の時間です。私達は行かなきゃなのです。ノワールはもうちょっとマークの様子を見てると言っときますね」
「ええ、じゃあ俺も残るよ!マークが心配だし」
「シャンブレーは訓練さぼりたいだけじゃないんですか?」
「うぐっ……い、いや、そんなんじゃないよ!ま、マークの分まで訓練してやる!絶滅しないぞ!」
「シャンブレーさん……!ふふ、もうふにゃふにゃ耳の臆病な兎さんだなんて言えないですね!」
「おう、マークの分まで守れるようにならなきゃな!」
「その威勢の良さ、訓練でも続いているといいですけど」
「じゃあンンさん、シャンブレーさんが逃げようとしたら罰ゲーム、なんてどうです?ノワールさんにくしゃみが止まらなくなる呪いをかけてもらうとか」
「ひいい!やっぱりいつものマークじゃないかぁぁ!」
わいわいと皆で騒いで、少し頭痛が和らいだ気がした。思えばこうして気を抜いて笑いあえたのは久しぶりかもしれない。この所イーリス王都にも屍兵の襲撃が何回かあり、城中気が張りつめていたのだ。
「二人とも、先に行ってて。私も後から行くから」
「はいなのです!マーク、いい子に寝てるんですよー」
「早く元気になれよな!……お前がいないと、みんな元気になれないし調子出ないからさ」
「ええ!訓練、頑張ってくださいね?」
ンンとシャンブレーが手を振りマークも返す。
急に静かになった部屋でベッドに深く身を横たえていると ノワールが毛布を掛けてくれた。
「ありがとうノワールさん。私はもう大丈夫ですよ?」
「ええ、私ももう行くわ。でもその前に一つ……さっき触った時に、気になっていたことがあったの」
彼女は少しためらったように目を宙へ彷徨わせる。そして「またちょっと触ってもいいかしら?」と遠慮がちに聞いてきた。マークが頷くと、彼女の手がまた額に触れてくる。
「やっぱり、変」
「え?」
「マークは呪われてなんかいないわ。なのに……ね、ねえ変なこと言うけど、笑わないでくれる?」
戸惑うように向けられた黒曜石のような瞳に戸惑う。呪いではないのに変とは?疑問に思いながらも頷いて見せると彼女はおそるおそる言葉を続けた。
「……なんだかね、マークの中に別の人がいるような気がするの」
「別の人、ですか?ノワールさんみたいな人格ってことでしょうか?」
「ち、違うわ。あれはなんというか、恥ずかしいけど無意識に出ちゃうけど私の一部。マークの場合はね、うまく言葉にできないんだけど……マークの頭に別の人が覆い被さっているような……そんな気がするの」
「じ、自分で言ってておかし話だと思うわ。やっぱり今のは忘れて……?」
そう苦笑いしてノワールは言葉を濁す。しかしマークはなんとなく思い当たる節があり、自らの額にそっと触れる。
――時々、激しい痛みの中に雑音が聞こえるのだ。例えるなら、叫び声。
恨みなのか怒りなのか哀しみなのかわからないけど、何処かで聞いたことがある声。懐かしくて、胸を締め付けられる声。痛いはずなのに愛しさがこみ上げてきて、しかし聞いていられないと悲しくなって耳を塞ぎたくなるような、そんな声が……
「そうだわ、これ」
黙り込んだマークに気まずくなったのか、ノワールがポケットをまさぐり、小さな袋のようなものを取り出し差し出してくる。
「新作のお守りなの。健康になれるよう呪いをたくさん込めてみたわ。よかったら貴方に持っていて欲しいなって、前から作ってたの」
「ノワールさん……」
「ごめんなさい、結局役に立てなかったからせめてこれだけでも。……母さんがいればまた違ったのかもしれないけど私じゃやっぱりダメね……」
泣き出しそうな声を上げ、ノワールは俯いた。彼女の母、サーリャは先日の襲撃で命を落としたと聞いている。ノワールの両親、そして仲間達の親たちは次々と子供達を守るためにその命を散らしているのだ。聖王クロムの元、覇王すら退けた精鋭達でさえも無限に押し寄せる屍兵にはかなわない。
――世界は絶望に塗り変えられているんだ。あの人が死んだ日から。
今はまだ、微かな希望があると信じているけど、きっとその欠片を踏み砕くようにギムレーはやってくる。強き者にも弱き者にも、誰にでも等しく死をもたらす為に。そんな気がしてならない。皆、必死に気づかないふりをしているだけだ。生きる望みを失わない為にも。皆必死で鍛錬している中でマークはたまにそんなことを考えてしまう。自分の中で、何処か仄暗く冷めた気持ちがあることに最近気づいていたのだ。
違う。まだ希望はあるんだ。マークは無理矢理にでも気持ちを前向きにしようと身体を少し起こし、泣き出しそうなノワールの手に触れた。
「そんなことないですよ、呪いが原因じゃないってだけでも前進できましたもの!大丈夫、ノワールさんのお守りがあればなんとかなりますって!ねっ、こんな時は鼻歌でも歌いましょ?そしたら気持ちも楽になりますって!」
そう言って久しぶりに鼻歌を口ずさむ。即席で作って、あの人が面白いと褒めてくれた歌を何故か唐突に思い出したのだ。ノワールはそんなマークを見て目を瞬かせ、濡れた目元を拭って微笑みを浮かべた。
「そ、そうね。こんな時だからこそ、明るくならなきゃね……不思議、私がお見舞いに来たのに、逆に気遣って貰っちゃった」
「えへへ、脳天気なのがマークちゃんのチャームポイントですからね!」
「自分でそう言い切るのね……でも、もし辛かったり悩んだら言ってね?私も、皆もいるから……」
「はい、ノワールさん!お守り、有難うございますね」
涙を拭い、気丈に笑ってみせる彼女にマークも少しだけ元気を貰った気がした。
遅れて訓練に参加するため、ノワールは席を立つ。子供の頃から華奢で病弱な彼女だが、皆を守るために弓を取り、母の分まで戦おうとしているのだ。そんな彼女が少しだけ眩しく見えた。……自分はまだ、ルフレを喪って以降もそんな覚悟ができていない気がする。
マークは先程貰ったお守りを握りしめ、小走りで扉に向かうノワールを見送った。
「私も早く訓練に参加しなきゃね……」
窓の外から威勢の良い鍛錬のかけ声が聞こえる。あの中には先ほどまでここにいたシャンブレーやンン、それにもう一人のマークもいるのだろう。
昔は身体能力に差がなかったのに、最近はふとした瞬間に彼との差に気づかされるようになった。比較的低かった背も自分や同世代の女子を越して行き、そっくりだった声も低い大人のものへと変わりつつある。
寝癖のように跳ねた髪、強い輝きを宿す瞳。母似と言われた彼だが、亡き聖王に似てきたと城の中でも囁かれていた。
『ルキナ様とマーク様が大きくなられれば、イーリスは安泰だ』
憔悴しながらも希望を失っていない兵達の噂話を聞いたことがある。彼らの話題の中にはきっと自分は含まれていない。自分は聖王の血を引いていないのだから、人々の希望にはなり得ないのだ。
そのことが少しずつ、頭痛で弱り始めていた心に影を落としこんでいた。そしてそれは、今でははっきりと輪郭を成した大きな影となってマークの心を冷え込ませる一因となっていた。
――同じマークなのに。同じだったのに。
お守りを握りしめる。手入れを忘れ少し長くなっていた爪が肌に突き刺さり、布地に赤い染みが出来た。
「血……」
自分に流れるのは邪竜ギムレーの血だという。世界に呪いを生み、絶望へと誘っている化け物の血。ルフレと同じ血を継いでいることだけが、孤独を感じていたマークに取っての救いだったのだが。
掌を裏返す。ルフレにはあった六つ目の痣が、マークにはない。日焼けが薄れ不健康に白くなった手の甲しかない。例え呪われた証だろうが、揃いの痣があればよかったのにと考え、馬鹿らしい考えだと苦笑いする。そして、ふとあることに気づかされた。
――今、この世界には邪竜ギムレーがいる。
ルフレは自身を邪竜の器と言っていた。自分の代で終わらせるとも。
「でも、もし終わらせられなかったとしたら……?ルフレさんは一体どうなってしまうの?」
彼女が死んだ、ということだけで今まで頭が一杯だった。頭痛も相まって、深く考えたことがなかったのだ。
「そんな、まさか」
思わず声をあげた瞬間、寝台、いや城ごと揺れるような衝撃に襲われ、マークは転げ落ちた。
外からは悲鳴が聞こえる。状況を把握するため窓辺に近づく。頭痛と振動に耐えながら窓に手をかけ目を瞠った。
黒い影がうねるように地を舐めていく。邪竜ギムレーだ。今まで遠くからは見えていたことがあったが、フェリアとの国境の山脈を越え、イーリスに近づいてくるのがはっきり見える。逃げまどう人々を品定めするかのように、悠然と羽を広げこちらに向かってくるのだ。
不意に赤い瞳が、城内にいるマークを捕らえた気がした。
「いやぁっ!」
その途端雷光のように刺す痛みに、マークは呻き屈む。
かつてない痛みだ。頭が内側から叩かれ、割れてしまうのではないかという位に。
とっさに守りを破れんばかりに握りしめる。そして何故かノワールの言葉を思い出した。
『なんだかね、マークの中に、別の人がいるみたいなの』
「べつの、ひと……」
痛みと混乱の中、ぐずぐずになった思考である人が浮かび上がる。瞬間、鐘のように鳴り響く痛みは違う形へと変わっていった。
胸を締め付けられるかのような、叫び。今まで忌々しいとさえ思っていたその音は焦点を結び、聞き覚えがある物へと変わっていく。聞きたくて仕方なかった、あの人の……
「ルフレ、さん?」
偶然なのか、それとも。邪竜が応えるかのように咆哮を上げた。
影が近づいてくる。そして頭の中で響く叫びもどんどん形を成し、確証へと変わっていく。
気づけば痛みを感じなくなり、マークは立ち上がっていた。そしてふらつく足で、その懐かしく愛しい声に近づこうと歩みだしていたのだ。