当分終わりそうもない書類の山をうんざりとした顔で見つめると、ルフレはしばし休憩を取ろうと頬杖をついて窓の外を眺めた。
僅かに開けられた窓からは春の温かい風が吹き込んでくる。冬には見かけなかった小柄な鳥が窓枠に止まり、つぶらな瞳でルフレの顔を見つめてくる。その愛くるしさに相好を崩し、ビスケットでも持っていなかったかと立ち上がった瞬間。慌ただしいノックの音が聞こえ、ルフレは誰だろう、とドアノブに手をかけた。
「ルフレさんルフレさん!」
「リズさん、どうかしたのですか?あら、いい匂い」
「でしょでしょ!いつも忙しいルフレさんに、私から差し入れのお弁当だよ」
「お弁当……も、もしかしてリズさんの手作りですか?」
開け放たれた扉に驚いた小鳥が飛び立っていく。代わりに現れたのはこれまた小鳥のように忙しなく、可愛らしい少女だ。小包を持って駆け寄って来たことに一抹の不安を抱きつつも、ニコニコと無邪気な笑顔を向けてくる彼女を無碍にすることはできない。しかしアーマーナイトであるカラムを卒倒させたという噂があるリズのことだ、きっと凄まじい味がするのだろうと覚悟を決めて引きつった笑いみ浮かべる。
「うん、そうだよ!あ、でもガイアさんに手伝ってもらったんだー。ジャジャーン!」
ルフレの悲壮な覚悟も露知らず、リズは弾ける笑顔で包みを開き、バスケットの蓋を開けた。恐る恐る中身を覗き込んでみる。焦げが目立っていたり歪だったりするものの、そこにはちゃんとした形になっているサンドイッチが収まっていた。
「美味しそうですね」
「ほんと!?精霊の粉とかガイアさんに止められて入れなかったから、いつもより見た目が綺麗じゃないと思うんだけど」
「リズさん、いつも何を入れて料理していたんですか……」
今日ほどガイアに感謝した日はない。なんだかんだと面倒見のいい盗賊に後で感謝しなければ、と苦笑いを浮かべて、「一ついいですか?」と首を傾げているリズに断りをいれた。
「うん、食べて食べて!ルフレさんの為に作ったんだから!」
「有難うございます、それでは頂きますね」
王女という身分でありながら、出会ってからずっと身分差を感じさせずに気遣ってくれるリズの厚意に目を細める。立場上料理なんてしなくてもいいだろうに、特別扱いを嫌う彼女は不慣れながらも人並みにやってみせようと努力しているのだ。時としてそれが空回りしようとも。
兄であるクロムと同じだ。聖王代理となり自分以上に忙しい日々に追われている彼の姿を思い浮かべながら、ルフレはサンドイッチにかじりついた。
「ど、どうかな?」
大粒の翠玉のような瞳が、こちらを伺うようにじっと見つめてくる。
最初の一口目ではざりっと嫌な感触がしたが、口に広がる味自体は素朴で、空腹だったことも相まって美味しく感じた。歯触りは悪いが、炒り玉子と鶏肉、葉野菜が挟み込まれたサンドイッチにルフレはにっこりと微笑んでコクリと頷いた。
「美味しいですよ、とても」
「やったぁ!やっぱり蛙肉が決め手だったのかなぁ!」
「そうですね、このお肉がとてもジューシーで…ってええっ!カエル!?」
二つめのサンドイッチへと手を伸ばしかけた手が止まる。ギョッとした顔でリズを見れば、「そうだよー」とやけにニヤニヤしながら指をくるくると回していた。
「アジト近くの池でね、こーんなにおっきいカエルが沢山獲れたの!ドニが食べられるっていうから、捌いて貰ったんだ!」
「か、カエル…確かに国によっては食用となる、と本で読んだことはありますが、こうして食べるのは初めてというか、意外と普通な味なのですね……」
一見(見た目以外は)普通のサンドイッチをまじまじと眺めていると、リズが何かにこらえきれなくなったのか噴出し、腹を抱えて笑い出す。突然の笑いにルフレは眉を寄せて彼女を見つめれば、満足そうな顔で王女はこちらに向き直った。
「その顔!その反応が見たかったの、ルフレさん!」
「リズさん?」
「問題です!今日は4の月何の日だ?」
「あっ」
しまった、と思わず顔に出せば、リズは「へっへーん」と胸を張りながらツインテールを揺らす。
「今日は4の月1の日、エイプリルフールです!蛙肉は嘘だよ、引っかかったー!」
「うう、やられました。こういうイベントはリズさん好きそうだってわかっていたのに……」
「私悪戯大好きだもん!でも最近は1の日になるとみんな警戒しちゃうから、ここまで気持ちよく引っ掛てくれる人は久しぶりなんだ!」
「お兄ちゃんもフレデリクも、最近はまず疑ってかかるんだもん」と口を尖らせる彼女に、ルフレは曖昧に笑うことしか出来なかった。今までどんなイタズラをしてきたのだろうか、散々辛酸を舐めさせられてきただろう二人を想像すると、ちょっと微笑ましい。
そんなことを考えていると、「見事に引っかかったルフレさんにお願いがあるんだー!」と声を弾ませてリズが見上げてきた。
「あのね、さっき言ったみたいに私が今日なにか悪戯しても二人共警戒しちゃうから……ルフレさんがお兄ちゃんを引っ掛けて欲しいんだ!」
「私がですか?」
「うん、ルフレさんはここに来て初めてのエイプリルフールだし、あまり疑わないと思うの。お兄ちゃん最近なんだか疲れているみたいだから、ここはスカッと笑わせてあげようよ!」
「い、いたずらすることがストレス解消になるのですかね…?」
「なるよ!悪戯マスターの私が言うんだから!」
大きな瞳を輝かせながらそう言い張るリズに疑念を抱くものの、確かに最近のクロムは何かと溜息をついている。バカバカしい嘘でもついて、無理にでも笑わせた方が気分転換に繋がるかもしれない。リズがこうして嘘をついたのも、決して引っ掛けた反応を見るだけではなく、仕事で根が詰まっている自分に息抜きをさせるためだろう。現に彼女の手には火傷の痕やら絆創膏が巻かれているのだから、単に騙したいだけじゃなかったはずだ。
人を和ませる嘘ならば、今日この日にうってつけである。それに、クロムの呆気に取られた顔が見てみたいという悪戯心が芽生えてきたのだ。ルフレはニヤリと口角を上げ、期待に胸を膨らませているリズに向き直る。
「……そうですね、いい案かもしれません。よし、軍師である私に任せてください。とびきりの嘘を考えてみせます!」
「うん、その調子その調子!ルフレさん、ファイトー!」
一方同時刻。
「くしゅんっ!」
「まあクロム様、お風邪でしょうか?」
「いや、ちょっと埃が……おいスミア、その上着はどこから取り出してきた」
「フレデリクさんから、クロム様が体調を崩された時に着せるようにと仰せつかって」
「……悪いが、それはいらないと伝えておいてくれないか。それとすまないが、何か飲みものを持ってきて貰ってもいいか?」
「はい、わかりました!」
桃色の毛糸で「クロム様絶対死守」と縫い込まれたファンシーな上着を抱きながら、スミアはふんわりと笑顔を浮かべて退出していく。フレデリクの厚意はよくわかるのだが、正直趣味じゃないそれを最近やんわりと断るようにしてきた。が、今度はスミアを使ってきたかと頭を抱えたくなった。無意識なのか、上目遣いで目を潤ませてくる彼女に頼まれるとどうにも断れない。「フレデリクめ……」と従順なふりをして意外に頑固な従者を恨めしく思っていると、控えめなノックの音が響いた。
スミアにしては早い、誰だろうと疑問に思っていると「私です」と聞き慣れた声に、思わず顔の筋肉を緩める。
「なんだ、ルフレか。入れ」
「なんだとはなんですか。その様子だと、お互いまだまだ仕事が溜まっているようですね」
入室してきたルフレも疲れた顔をしていて、肩を竦めて「だな」と返した。気心の知れた親友である彼女が髪をいじりながら笑いかけてきて、クロムも一度休憩にしようとインク瓶の蓋を締める。スミアが茶を淹れてきてくれるだろうからちょうどいい。
「それでどうしたんだ、何か至急の案件があった、という様子でもなさそうだが」
「うーん、至急というわけではないのですが」
髪を弄りながらそうぼかす彼女に違和感があり、クロムは思わず眉を顰めた。いつもはすぐに本題に取り掛かるのに、今日は何故か目も合わせてこないうえに話題をぼかしてくる。それに、浅黒い隈が浮き出ているものの爛々と目を輝かせているのだ。しかし何が変なのかをどう伝えればいいのかわからず、クロムは書類を整えながら、黙って彼女の言葉を待った。
「個人的な話なのですが、やっぱり半身である貴方へ真っ先に伝えたくて」
「なんだよ、今日のお前妙だな……で、話って?」
「私、彼氏が出来たんです」
ルフレは頬を染め、もったいぶりながらもそうポツリと呟く。
麗らかな陽光が差し込む部屋の空気が一瞬ピシリと凍りついた、気がした。
(あれ、意外と驚かないですね?)
いつも通り憮然とした顔でこちらを見てくる青年に、ルフレは少しだけ焦りを感じた。
計画だともっとクロムは大げさに驚いて、種明かししたら悔しそうに「お前に出来るわけないよな」と笑ってくれるはずだったのだが。
これでは悪戯失敗だと焦り、「け、結婚も考えているんですよ!」と思わず追加する。だがクロムは相変わらず眉を顰めたままこちらを覗き込んでおり、流石にわかりやすい嘘過ぎただろうか、とルフレを落ち込ませた。
(それにしたって、もっと驚いてくれたっていいじゃないですか!なんですか、そんなに私は彼氏できそうもない顔をしていますか!?)
ルフレは異性同性関係なく接するせいか、仲良い友人は多いもののこれといった相手は特にいないし浮いた噂もない。だからこそこの冗談を選んだのだが、それにしたって反応がないクロムに憤りすら感じてしまった。だが思い返してみれば、敵を蹴散らす相手からしてみれば悪鬼のような存在で大体血にまみれており、私生活も熊肉を狩ってそのまま丸焼きにして貪るような女だ。
行動を思い返してみると端から嘘だとわかるに違いない、と悲しいかな自分でもつい思ってしまう。
(……うう、完全に外しちゃいました。やっぱり悪戯はリズさんにかないません)
「それでももう少し反応して欲しかったな」と何て表現していいかわからないモヤモヤした感情を抱えながら、無反応なクロムを見て溜息をついた。一人で勝手に盛り上がっていた分、ネタばらしするのにも気が重い。
それでもなるべく冗談めかせようと無理に笑顔を作って口を開いた、その時だった。
「きゃあああああ!」
「あの声はスミアさん?どうしたんですか、敵襲でもあったんですか?!」
昼下がりの柔らかい空気には似つかわしくない凄まじい音と、絹を裂いたような悲鳴が響き渡り、ルフレは反射的に駆け出していた。
だから気づかなかったのだ。出て行ってしばらくした後に、クロムの手から書類がバサバサと落ちていくことを。新兵訓練の報告をしにソールとソワレが訪れるまで、部屋で硬直していたのだ。
*
「ルフレさーん、ね、嘘はどうだった?」
「リズさん、ですか。はあ……」
夕食時。スープの器を持って声を弾ませ聞いてくるリズに対し、ルフレのテンションはこれ以上なく下がっていた。
茶器を持ったまま転び、そしてその衝撃で脆くなっていた壁を打ち砕いたスミアを救出し、平謝りする彼女と共に修繕した後。額を腫らせていたものの対した怪我はなかった彼女に安堵しつつも、食堂についた途端どっと疲労が押し寄せてきて木製のスプーンを彷徨わせていた。
そういえば嘘なんてついていましたっけ、と思い返し器の淵に沿ってクルリとスープをかき混ぜる。
「失敗しちゃいました、クロムさん全然驚かないんですよ」
「あちゃー、ルフレさんでもダメだったか。それで、なんて嘘ついたの?」
「私に結婚を前提にした彼氏がいます、と」
あの時のクロムの反応を思い出し、少しだけむっとした顔でそう言えばミルクベースのスープを飲んでいたリズが突然咽せた。慌てて背中をさすってやれば、「ルフレさん、それはまずいよ…」と涙目で彼女が訴えてくる。
「お兄ちゃん、最近なんで悩んでいたのかわかる?」
「?ええと、仕事が多いから疲れているのかな、と」
「お兄ちゃんもお兄ちゃんだけどルフレさんもルフレさんだったよ。もう、なんで鈍いのかなぁ」
「どういうことなのですか?」
スプーンを握りしめて嘆くように呟くリズについていけず、ルフレはきょとんとしてしまう。
どういうことなのだろう、何か自分に原因があったのだろうか?多少獣臭さは残るもののじっくりと煮込まれた肉を頬張りながら首をかしげてみせる。その様子にリズは大げさに溜息をつき、「あのね」とルフレの耳に口を寄せて小声で言った。
「お兄ちゃん、最近お見合いの話が沢山来ててね。そういう話にはナイーブになっているみたいなの」
「え、そうだったのですか?」
「やっぱりお兄ちゃん、ルフレさんには言ってなかったんだ。そんな気は薄々してたんだけどさ」
「そんな大変な時期に、私無神経なこと言っちゃったんですね…あぁ、なんてことでしょう、私ったら」
クロムに想いを寄せている女性は多々いるらしいが浮いた話を特に聞かず、そしてルフレ以上に恋愛ごとに興味なさそうな彼が、見合い話に前向きになれるはずもない。ただでさえ政治や執務に慣れていないというのに仕事も忙しく精神的にもいっぱいいっぱいな日々だ、余計にストレスが溜まっているだろう。
しかし王としての立場上、早めに伴侶を決め後継を産まなければ民も安心できない。それに、慕われていたエメリナが亡くなった今。彼自身がその身をもって、イーリスに明るいニュースをもたらさなければならないのだ。
とはいえ、クロムが結婚すると考えるとツキンと胸が痛む自分がいる。そして、彼氏がいると言っても反応しなかった彼の顔を思い出し、深く溜息をつきかけ慌てて首を振った。
(クロムさん、真剣に悩んでいるだろうに私は自分のことばっかり……こんなんじゃ失望されちゃいますよね)
ともかく後で謝らないと、そう考えながらルフレが頭を抱えたその時だった。
それまで和気藹々としていた食堂に、「ルフレッ!!」と緊迫した声が響き渡る。
見れば藍髪を乱し、息を荒げながらクロムが扉前で仁王立ちしていた。軍主のただならぬ様子に和やかだった皆は表情を固くさせ、彼の一挙一動を見守る。
「あちゃー、お兄ちゃんったら言ったそばから」
「く、クロムさん、どうされましたか?」
離れていても伝わる気迫に、ルフレは食器をそのままに腰を浮かせる。嘘に怒っているのだろうか、それとも何か問題でもあったのだろうか。先程のリズからの話もあり、気まずさはありながらも敵襲だったらと考えると彼に接触しないわけにはいかない。皆からの視線が痛いが、一先ずクロムと話そうと扉まで歩み寄った、その時だった。
「相手は誰なんだ」
「は?」
「お前と結婚する奴は誰だと聞いている!」
瞬間、食堂からざわめきが消えた。
何かの冗談か、とルフレは思わずクロムの顔を見るが、海の底のような青い瞳は至って真剣で、何故か怒気まで含ませてこちらを睨みつけている。
「えーと、クロムさん。話がわからないのですが」
「とぼける気か、それとも俺には言えないような相手か!!」
クロムの覇気にひゃっ、と首を竦めるルフレだったが、そこでようやくあることに気づいたのだ。
(私、あの話を嘘だって言っていない!)
スミアと別れた後、彼の部屋に戻ることなく食堂へと直行してしまったのだ。ルフレは顔をサァッと青ざめさせる。クロムは冗談だと思ったからこそ無反応だったと勘違いしていたが、どうやらそれは違ったようだ。
皆の視線が痛い。まさかこんな大事になるとは。クロムの真剣な表情に嘘だと笑っていうことも出来ずパニックになり、ルフレは思わず彼の脇を擦り抜けて外へと飛び出していった。
「ルフレ、何故逃げる!?相手は誰なんだよ!!」
「ご、ごめんなさーい!」
「謝るような相手なのか!!待て、ルフレーッ!!!」
旋風のようにルフレを追いかけるクロムに、傍にいたマリアベルが「なんですの、あの二人は」と呆れ混じりに呟く。リズもまた盛大に溜息をつき、「こっちが聞きたいよ…」とすっかり冷めてしまったスープを口に含んだ。
*
「これでもう、逃げられないぞ、観念して言うんだ」
太陽も沈み、空に星が瞬き始めた外。
クロムは壁にもたれかかり同じく荒い息を上げているルフレを、両手をつくことで閉じ込めて肩で息をつきながら睨みつけた。
彼女は汗を流しながらも露骨に視線を逸らしてきて、それがますますクロムの神経を逆撫でさせる。
「クロムさん、その、ですね」
「口籠もるような相手なのか?……半身である俺にも言えないような相手なんだな。最近顔を見せないと思ったら、そうかそういうことだったのか」
「だからですね、あの…それは仕事が忙しかったからで、別にそういうわけじゃ」
「じゃあなんだよ!」
グッと顔を近づけてそう叫べば、ルフレはビクリと身体を震わせた。彼女が滅多に見せぬ怯えた瞳でこちらを見ていることに気づき、クロムはふと我に返る。
――ソール達に呼ばれるまで、ルフレの告白がどういう意味か考えられなかった。一番近い存在だと思っていた彼女に、そういう関係の相手がいるという事実を受け止められなかったのだ。
しかし、ルフレはクロムの半身である以前に、一人の人間だ。普段の彼女からは想像できないが恋だってするだろう。そのことに対して、クロムは一々口を挟む権利はない。リズはともかく、ルフレは家族ではないのだ。…いまこの瞬間まで、妹のように思って気付かなかった。
「すまん」
彼女から顔を離し、頭を下げる。ルフレが決めた相手だ、きっとしっかりした男だろう。
少なくとも、大臣から勧められる見合いを受ける気にもなれず、王族の責務から逃げたがっている自分よりは。
(何を勝手に焦っていたんだろう、俺は)
それでも、何の相談もなく、何の兆候もなく自分の手から離れようとするルフレを恨めしく思う自分がいた。彼女ならいつまでも傍にいてくれると信じきり頼りきっていたことが情けない。そして、同時に胸の中を靄が覆っていく。それは言葉に出来るほど実体があるものでなく、しかし鉛のように重く湿っていて、鈍色にクロムの心を占めていくのだ。
「クロムさん」
心配そうに、腕の中で縮こまる彼女がこちらを見つめてくる。いつもと同じはずなのに、彼女はもう何処か手に届かない存在のように見えて。何故かドキリ、と鼓動が早まってしまい、いけないと頭を振った。彼女はもう、誰かのものなのだ。
「悪かった、責めるつもりはなかったんだ。だが、どうしても気になってな。俺はお前の、半身だから」
半身、という言葉が、声に乗せるといつもより重く感じてクロムは表情を暗くさせる。
様々苦難を乗り越え、ここまで築き上げてきたルフレとの友情は変わらない。だが人生を共にするだろう伴侶がいる彼女に、軽々しくこの言葉を使っていいものなのか。
(たとえルフレに相手がいたとしても、半身だと思う相手は俺だけでいて欲しいというのは都合が良すぎるだろうか)
まだ誰かもわからない相手に嫉妬めいた感情を抱いてしまい、そんな子供じみた自分に苦笑を浮かべて彼女に向き直る。
「誰だろうと、お前が選んだ相手だ。口を挟むつもりも反対するつもりもない。だから、教えてくれないか?」
心の靄に無理やり蓋をして、クロムはルフレの肩に手を掛けてそう笑いかける。ルフレの瞳に映っている自分がちゃんと笑っていることを確認し、安堵した。
――そうだ、誰であろうと受け入れる準備は出来ている。それが、半身というものだろう?
耳を塞ぎたい、知りたくないと何故か恐ろしく感じてしまう心も押さえつけ深呼吸する。そして、今度こそ何も言うまいと静かに言葉を待った。
二人の間を訪れた沈黙。ルフレはしばらく視線を逸らし、また合わせるという挙動不審な行動を取った後、意を決したのか口を開く。彼女の緊張が伝わり、クロムもまた身を固くさせた。
「ごめんなさい、クロムさん!あの話は嘘なんです!!」
「………………何、だと?」
泣きそうな声でそう叫ぶルフレに、クロムは思わずポカンと口を開け、彼女のつむじを眺めることしか出来なかった。
*
「そういうことだったのか、緊張して損したぞ」
「本当にごめんなさい、貴方がそんなに信じるとは思わなくて」
並んでアジト近くの草むらに座り、しきりに謝ってくるルフレに「もういいから顔上げろ」とクロムは苦笑いして彼女の頭をポンポンと叩く。
毎年リズから仕掛けられているから警戒していたつもりだったが、まさかルフレが嘘をつくとは思っていなかったのだ。ルフレの相手が誰なのかと聞いて回った時、ソールやソワレが顔を見合わせて含みのある笑みを浮かべた時に気づくべきだった、とうなだれているルフレを見つめながら思う。
「我ながら、いい冗談だと自信があったんです。でも、貴方がお見合いで悩んでいるなんて気づかなくて……私、半身失格ですね」
「俺も冗談だって見抜けなかったんだ。お互い様だろ?」
「そういえば、なんでそんな大切なこと相談してくれなかったんですか?女の私からなら、違った意見も聞けるでしょうに」
少しだけ不満そうな顔で見てくるルフレに、クロムは思わずうっ、と言葉を詰まらせる。
実際、それまで何度か相談しようと考えていた。しかし、自分でも何故だかわからないが話を切り出すことが出来なかった。会ったこともないが違う女の話を彼女にする勇気がなかったのだ。
最初は自分にとってあまり興味のないことだったからに違いないと思い込んでいた。しかし、今ならこちらを見つめてくる彼女、そして嘘だと告白されるまでの自分の心境を考えると、その答えに手が届きそうで。
しかしあと一歩、このぐしゃぐしゃな感情に名前を付けることが出来ず、照れからクロムは手元にあったクローバーをブチブチとむしりながら答えた。
「なんとなく、だ」
「なんとなくって……確かに私は多少、いえかなりガサツなところもありますけど、一応女の子なんですよ?貴方の好みを知り尽くしている訳ではないですけど、いい相手を選ぶ基準くらいなら」
「いや、その話はもういいんだ。今日でなんとなくわかったことがある、だから見合いは一旦保留にしてもらうつもりだ」
「なんですか、それ」
呆れたように肩を竦めてみせるルフレだったが、その顔は何処か安堵しているように見えて、クロムも釣られて微笑む。そういえば書類に見合いにと日々追われ、ゆっくりと笑い合える時間は久々な気がする。
突然降りかかった聖王代理というクロムには少々重すぎる荷を下ろし、安心してありのままを話せるのはやはりルフレだけだ。
「今日は色々と疲れたな」
「ええ、本当に……」
「もう面倒だから、結婚相手はお前にするかな。ルフレ」
「あらクロムさんったら。エイプリルフールだからって、そういうバレバレの嘘はいけませんよ?」
「真にうけちゃったらどうするんですか?」と膝を抱えてクスクスと笑う彼女だが、髪で隠された頬が赤くなっていることに気づかされる。クロムもふっ、と笑い、「冗談だ」と言ってみせた。
そう、今日は嘘をついてもいい日だ。どんなに真摯に言葉を伝えようとも、虚飾されているものと誤解され、笑いに変えられてしまう日。
だけど、明日からは違う。
もう少しで自分が抱え、持て余しているこの感情に名前をつけることが出来る。
(その時は、ルフレに伝えよう。この胸に占める本当の想いを)
二人してひとしきり笑いあった後に、春の空をふと見上げる。
冬に比べて霞みがかって見える三日月は、この手に届きそうだと思ってしまうくらい近くなっているように感じた。
支援Cからでもこいつら強制結婚するんだよなぁ…それってどうなんだ、と思いながら書いてみた話です。
個人的にクロルフは裸を見てお互いが異性だと意識してから恋が加速する、と思っていたのですが、いつも裸を覗き合っているのもあれかなーと思い、こんな切欠があっても面白いかしら、と。
クロムさんもルフレさんもはっきりと自覚するまでにかなり時間がかかりそうですが、自覚してからは早いと思います。とき○モGSでいうと友好が長くて好きからときめき期間が短い的な…(伝わりにくいネタ)
タイトルのコマドリ、なんとなくフィーリングでつけた仮題だったのですが、北米版だとマイユニのデフォネームが「ロビン」=コマドリだったので採用しました。構想段階だと肉さんが「屍兵の肉を入れました」とリズちゃんに嘘付いたりしてたのですが尺的にカット。リズちゃんが沢山書けて楽しかったです。