「どうするんだ、この山」
「ごめんなさい、今日はいけると思ったのですが」
こんもりと皿に積まれた、甘い香りを漂わせるクッキーの山。一見するとちょっとこげている以外は普通だが、一度口にすれば舌を突き刺す鋼の味がするというやっかいな代物である。その山を構成する一枚を手に取りクロムはうんざりとした顔を浮かべ、ルフレは額を抱えうつむいてしまった。いつもよりも風味が引き出されたたそれらに、味見を手伝いをしていた幼いルキナですら、味見をすると苦笑いを浮かべる始末であったのだ。
「マーク達の誕生日だからと力みすぎてしまったみたいで……これは責任もって私の明日からの茶菓子にしますから、無理して食べなくてもいいですよ」
「いや、材料が勿体ないから食べる。大きいルキナやマーク、リズ達にも分ければいける量だ」
「お気持ちは嬉しいですけど、さりげなく被害者を増やさないでください!リズさん達なんか完全にとばっちりじゃないですか」
「リズだって俺によくわからない味の弁当だの菓子だの押し付けてきたんだからお互い様だろ。家族というのは助け合うものだ」
「この時代のウードさんの味覚が正常に育つか心配ですね」
未来から来たルキナやウードが王族だというのに妙に料理上手だったのは、自衛の為だったのかもしれない。彼らの不憫さに思わず涙が浮かびそうになった。そして、自分の不甲斐なさにも。
うなだれていると、クロムがポンポンと頭を優しく叩いてきた。
「しょぼくれてるから一応言っておく。調子がいい時のお前の料理、俺は好きだぞ?」
「うう、慰めはよしてください…ルキナ達に得意顔したくて、少し作りすぎた私が悪いんです」
「マーク達はルキナと同じく料理が得意になるといいな。少なくとも、俺やリズには似ないで欲しいものだ」
「二人いますから、どっちかは鋼の味を受け継ぎそうですけどね…そういえば、大きいマークは自炊しても鋼の味が取れないって言ってましたっけ」
クッキーを齧りながら笑う夫に、ルフレは苦笑を浮かべる。そして、先ほど「はがねのあじだー!」と叫びながら部屋から飛び出して行った双子に想いを馳せた。
一人は未来から来たマークと同じ性別の男の子。
もう一人は、未来ではいなかったと言われる女の子。二人共、未来から来たマークにはない聖痕が、片方ずつ目に刻まれていた。
ルフレの提案で二人に同じ名前をつけたものだから、ややこしさに最初は混乱した。が、周囲は時が経つに連れて慣れて行きニュアンスで呼び分け、マーク達も特に不自由なく聞き分けるようになった。未来から来たマークも大層お喋りであったが、この双子は幼いということも相まって輪をかけて賑やかであった。いつでも二人一緒なものだから悪知恵もよく働くようで、誕生日の今日も「窮屈な正装を着るのが嫌だ」と、見張りの騎士達、あのフレデリクの目さえも逃れて城内から抜け出そうとしていた始末である。幸い、二人を祝いに来た大きいマークの手によってなんなく捕らえられてしまったのだが。
「しかしあいつら、本当に式典が嫌だったんだな……あんなぶーたれた顔、ちんまい頃のリズでもしなかったぞ」
「あら、クロムさんだってよく壁を壊して逃げ出そうとしていたって、前ソワレさん話してくれましたよ?」
「む、昔の話だ!それも大昔だからな!くそっ、ソワレめ……いつこんなこと話したんだ」
「マーク達ったら、そんなところがクロムさんに似ちゃったのですかね」
肩を竦めてルフレもクッキーをつまめば、夫は「悪かったな」と憮然とした顔を向けてきた。肩を竦めて刺々しい視線を受け流し、窓の外を何気なしに見つめる。初夏が近づき、若葉が青々と輝いている良い天気の日だ。2対の蝶がひらひらと舞うように外を飛んでいき、風に乗って高く昇っていく。
「でも早いものですね、もうマーク達も5歳ですか」
「ああ、本当にそう思う。行軍の日々が遠い昔みたいだ。……お前がいなくなって、戻ってきたのも。」
ポツリと呟かれた言葉にクッキーをかじっていた口を止める。
邪痕が消え失せた自らの手に、気づいたらクロムの手が重なっていた。
「不思議なものだ。こうしてお前が帰ってきて、イーリスも落ち着いて、家族が増えたというのに…まだ、お前が何処か行ってしまわないか、と思ってしまう自分がいるんだ」
「クロムさん……」
「我ながら女々しいとは思う。だが、こうしてお前に触れていないとどうしようもなく不安に感じる時があるんだ」
きっと今が幸せだからだろうな。
そう言ってはにかむ夫の表情に、ルフレは胸を締め付けられた。
マーク達が生まれた夜も、クロムは出来るだけ傍にいてくれた。もう愛しい者を二度と失いたくないという気持ちからだろう、彼の気持ちが痛いほどわかる。なにせ半身なのだから。
だからルフレは彼の掌を握り返した。私はここにいる、と証明するように。
「クロムさん、もう私はどこにも行きません。死が二人を分かつ時まで、貴方の傍にいさせてください」
「当たり前だ、むしろ死んでも離さないぞ。……なあ、あの時みたいにもう嘘つかないよな、ルフレ?」
「誓いのキス、しましょうか?」
「それは男がいうセリフだろ…まあいい、してくれ」
「もう、現金な人」
繋いだ手はそのままに、目を閉じてクロムに顔を近づける。クロムもまたルフレの腰を引き寄せ、妻からの口づけを待った。
吐息を感じるほどに二人の顔が近づく。もう幾千幾万とくちづけを交わしているが、やはりこの瞬間はいつだって胸が高鳴るものだ。
あと数センチ、数ミリ。ゆっくりと熱が近づいてくる。
「「とーさん、かーさん!!マークにーさんがねー」」
「うおおおおお!?」
「きゃああああっ!!」
唇が触れ合いそうになる瞬間。子供たちのあどけない声に、甘い雰囲気はどこへやら、二人は慌てて互いの身体を突き飛ばすようにのけぞった。その衝撃で、クッキーの山がガラッと崩れ落ちる。
「とーさん、かーさん、どーしたの?」
「かおまっかだよ、かぜ?」
「なんでもない!」
「なんでもないです、なんでもないですから!!」
「マーク!!お父様とお母様の邪魔をしてはダメですって!」
「ねーさん、ぼくたちなにもわるいことしてないよー」
「おとしあなもほってません!」
「る、ルキナ?!お前、いつから……」
いつの間にかマーク達の前に立ち、通せんぼしている小さなルキナに二人は顔を青くした。
二人きりだと思っていたというのにいるということは、彼女はこの部屋の何処かにいたと言う事で。
幼い娘に初々しい恋人のような姿を見せてしまった気恥かしさから二人でしどろもどろしていると、「邪魔してはいけませんからねっ!」と釈然としていない様子の弟妹を連れて、エプロンをふりふりと揺らしながらルキナは部屋から出て行ってしまった。
「ああ、ルキナ、これはですね、その!……って、もう行ってしまいましたか」
「全く。ルキナのよくわからん気の使い方はお前に似たな」
「クロムさんの人の話をまるで聞かない所もそっくりですよ!」
嵐が去った後のように、再び静まり返った部屋。赤い顔のまましばし人軽くにらみ合って、すぐに二人して破顔する。
こうした何気ない幸せを噛み締められる日々が、世界が、愛しくて仕方がないのだ。
「子供達も行ったみたいですし。マーク達の誕生会をやる前にルキナのお言葉に甘えてキス、し直しちゃいます?」
「お前、帰ってきてから大胆になったな。昔は自分からは出来ないって恥ずかしがってたのに」
「それは昔の話、結婚したばかりの頃でしょう?それとも今更恥じらった方が、貴方的にはそそりますか?」
少し頬を膨らませて言って見せれば、クロムは口角を上げてぐいっ、と顔を近づけてくる。
彼の意を酌み、微笑み返してから今度こそ、とルフレは瞼を閉じて彼の唇に口づけを落とした。
*
クロムとルフレが口づけを交わす数刻前。
王子と王女の誕生日を祝う国旗が、城下町のいたるところに掲げられ温かい風の中翻っている。双子を祝い賑わう民衆を窓枠に腰掛けながら眺め、マークはぼんやりと物思いにふけっていた。
――父と母を飲み込もうとうしていた死の運命は覆された。そしてマークが知る未来とは少しずつ分岐し、新しい世界を構築し始めている。
例えばひねくれた所がある幼いセレナは素直に育ち、ジェロームも相変わらず人見知りではあるが、他者を拒絶することはない。未来では幼い頃に死に別れた両親と共に暮らし、仲間である彼らとはまた違った性格に育ちつつあるのだ。ギムレー教団も解体され、曇りなき平和な未来が訪れ始めたのだからズレが生じてもおかしくはない。未来では死したはずの叔母であり前聖王であるエメリナも、バジーリオ達の庇護の元フェリアで穏やかに暮らしているという。
そして最も異なるのは、聖王夫婦の下に双子が生まれたということだ。
自分以外は知らないだろうもう一人の“マーク”。ギムレーを滅ぼした為に異世界でも呪縛が放たれたのか、それともルフレという因果にたぐり寄せられたのか……。詳しい理由はわからないが、母の提案で彼女もまた「マーク」と名を与えられた。皆に祝福されて健やかに育ち、そして今年、二人共5歳になったのだ。
交差する二つの旗に目を細め、マークは無意識のうちに一冊の本の背を撫でる。元いた世界の少女、姉のように慕っていたマークの字が書き加えられた、母の形見である戦術書だ。
そっと髪を揺らす風が、民衆の活気に満ちたざわめきを乗せてくる。
生まれ育った世界とはまるで違う優しい世界。知っているようで、知らない世界。重なり合っているようで、しかし少しずつ噛み合わない為に、記憶を取り戻したマークは取り残されている気がするのだ。
そのズレに何故か目眩がして、戦術書を抱きながらぎゅっ、と目を伏せた。
*
「僕は、ルキナさんがいた世界とは別の世界から来たんです」
5年前に記憶を取り戻し、少し経ってからマークは姉に告白した。
「未来の僕にはルキナさんと、もう一人……マーク姉さんという大切な人がいました。一人で母さんを守るという彼女を追いかけて、僕はイーリスを、ルキナさん達を裏切ったんです」
カンテラに灯された炎が揺れる。暗がりの中でルキナの表情はよく見えない。
こんなことを急に言われても彼女は戸惑うだろう。だが、彼女の本当の意味での弟でないことを伝えなければいけないと思ったのだ。
「あ、だからってルキナさん達がいた未来の僕が裏切っているってことはないと思いますよ!未来にはマーク姉さんは存在しなかったのだから……もしルキナさんが未来に戻る機会があったら、本当の“マーク”を探してあげてくださいね。少し違うとはいえ、僕は僕なんだからきっと図太く生きてますよ!もしかしたら空腹で倒れてるかも」
冗談めいた笑みを浮かべてそう言った瞬間、室内に映し出された影が大きく揺れ動いた。
気づけばマークはルキナに抱きしめられていた。いつの間にか身長を追い越し、彼女の方が縮んだのではないかと思ってしまったこともある。しかし、今マークを抱きしめているルキナの胸の中は、幼い頃に刻まれた母のように広く感じた。
「ルキナさん?この歳で抱きしめられるのは、ちょっと恥ずかし……」
「この時代のお父様もお母様も、私達を本当の子供のように慈しんでくれました。それと同じ、私が貴方のことを本当の弟でないと思わないわけないでしょう?」
顔を上げれば、薄明かりの中ルキナは微笑んでいた。父にも母にも似た、優しい表情で。
その笑みを浮かべる相手は違う。過去に苦しませてしまった姉の姿を思い返してしまい、眉を顰めるとルキナは優しく背中を叩いてきた。
「それに、貴方が私の本当の弟でないとしても。共に戦い助け合い、一緒にお父様に叱られたりファルシオンを果物で切ったり、悪戯ばっかりするけど常に私やみんなを和ませてくれた貴方との絆は変わりません。貴方がいてくれたから、私達は、お父様たちは避けようがないと思われた運命を変えられた」
「ルキナさん」
「来た世界は違っても、貴方はもうひとりのマークとお母様を守ろうとしたのですね。私、お父様が倒れた時にやっぱり運命は変えられないと思った。お母様を信じられなかった、あんなに大好きだったのに。だから、有難うございますマーク。異世界の私の代わりに、お母様の傍にいてくれて……」
目の前にいるルキナはマークの本当の姉ではないはずだ。なのに、あの時の姉と同じ言葉をかけてマークを抱きしめてくれる。
(世界が違っても、姉さんは姉さんなんだ……)
記憶がないマークを我が子とすぐに認め、実子のように接してくれた両親と同じように、彼女はマークという存在を肯定してくれる。戦禍の中はぐれたという本当の弟と出会えたと今まで思っていただろう彼女を、ぬか喜びさせてしまったのではないかと不安に思っていた気持ちがバカみたいだ。
「ルキナ…姉さん」
幼く愚かだったあの時とは違い、マークはもう大人と言って差し支えのない年齢になっていた。だが、こらえきれずマークは姉の胸にすがりつく。心の枷が外れたように、頬に涙が伝っていった。なんて自分は幸せ者なのだろう、取り返しのつかないことをしてきた自分には痛いほど染みる愛情が苦しくて、嬉しくて。涙が塩辛くて仕方ない。
(僕はあの時姉さんに命を分け与えられて、生きてきてよかったんだね)
「僕は、姉さん達に会えて、この世界にこれて、よかった……」
カンテラの柔らかい光の中。いつもの笑顔を崩し咽び泣くマークを、ルキナは何も言わず静かに抱きしめていた。
記憶の中にかすかに残る、言葉は少ないが時に苦しすぎる程抱きしめてくれた父のように。
*
「「マークにーさんいたー!」」
綺麗に重なったソプラノに、物思いに耽っていたマークは目を開ける。
振り向けば髪の色とくせっ毛具合以外は全く同じ容姿をした双子が、目を輝かせこちらを指差していた。
「パーティーこないって、かーさんがさがしてたよー!にーさんもおたんじょーびなのに!」
「はがねあじのクッキーのやま、へらすのてつだえってとーさんいってた!!」
こっちきてよー、とパタパタと足音を揃えて二人のマークはやってくる。裾をグイグイと引っ張られ、思わず手から落ちそうになった戦術書を慌てて窓枠に置いた。
「わかりました!わかりましたからそんなに引っ張らないでくださいよー、服が破けちゃいますって!」
この世界の自分と同じ存在と、元いた世界の少女マークに兄と呼ばれ慕われるのは未だにくすぐったい。笑って窓枠から降りれば、それまで悪戯っ子のように笑っていた二人が揃ってキョトンとした顔で首をかしげた。
「マークにーさん?」
「んー、どうかしましたか?厳選熊肉燻製セットも必殺他殺大全もさっきプレゼントで渡したでしょう?もう僕の懐はすっからかん…」
「にーさん、ないてるー」
「どっかいたいの?」
「えっ」
右目、左目と別々に聖痕が刻まれている大きな瞳に見つめられ、マークは一瞬呆気に取られた。
慌てて頬に触れれば、濡れた感触が指先に伝わった。
止めようと思っても何故か止まらず、マークは慌てて外套の裾で目元をゴシゴシと擦る。
「あーわかったー!」
「かーさんのクッキー、そんなにたべるのいやなんだ!」
「まずいもんねー!」
「あ、いや、そうじゃなくてですね」
「かーさん、とーさん!マークにーさんがねー!!」
子供達はキャッキャッと笑い、手を繋いで駆け出していく。
それがかつて両親や姉に悪戯を仕掛けた時の自分たちと重なり、視界はますます涙でぶれて、崩れていく。
「困ったな、こんな顔じゃ父さん母さんに顔見せられないよ……」
マークが泣いていると聞かされれば、あの二人のことだから駆けつけてくるだろう。
もう成人していて、一人の男として愛する人もいる歳なのに。自分とさほど歳の変わらない彼らは、きっと別れの時まで子供扱いしてくるに違いない。
――さっきからどうにも涙もろいのは、この風のせいだ。
そう、本来いた世界の母が姉によって倒された時に感じたものと同じ、生命の匂いがする暖かい薫風のせい。
拭うことも隠すこともやめ、涙が溢れ続ける瞳のままマークは顔を上げて微笑みを浮かべる。鼻がツンとしたが、草木と甘い焼き菓子の香りが何処からともなく流れてきて、その切なく感じた痛みを和らげてくれる。
思い出したけれども、古い本に書かれた文字のように早速掠れてきた遠い昔の幼い頃の記憶。
子供だった自分の隣には父がいて、母がいて、姉がいて、少女のマークがいて……今を生きる未来は変わったけれども、失ってしまったはずのその光景が重なり、そして今の自分が確かにここにいる。
「生まれてきてくれて有難う、マーク」
二人のマーク。
姉のように慕っていたマーク。
そして、こうして生き抜いた自分という存在。
もう忘れない。元の世界のことも、この世界のことも。罪も痛みも、こうして胸にこみ上げてくる幸せも。
窓枠に置かれた二冊の戦術書の上に白と青の蝶がいつの間にか止まり、鱗粉を輝かせ羽を休めていた。
誕生日だからと思いついたマーク救済編?です。
折角の誕生日だというのにこのマークは本編マークよりもちょっとスれてたり捏造満載だったりするのですが、もう一度このシリーズを書いてみたかったので満足しています。